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No.25 板沢一里塚

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板沢(いたざわ)一里塚(いちりづか)
 市指定史跡

 鹿角街道筋に1604年一里塚が築かれ、板沢と三浦にもそれぞれ二基一対設けられましたが、現在板沢のみ一対残っています。土盛りの塚はほぼ現状を保っており、南側の塚上には、槐(えんじゅ)約70~80年生がありましたが、1982年の台風によって折損しました。現在は大館市により改めて整備され、北側塚上には跡継ぎの槐が植えられています。1991年3月3日大館市の史跡に指定されました。
 北側:底面直径約3.5m、高さ約1.4m
 南側:底面直径約3.3m、高さ約1m

Itazawa Milepost
 City Designated Historic Landmark

 This distance marker was built in 1604 along the Kazuno Kaido road. Originally, the Itazawa and Miura mileposts were both built with one small mound on each side of the road, but today, only one side of the Itazawa milepost remains. The remaining mound is mostly preserved. There was once a 70 to 80-year-old Japanese pagoda tree on top of the southern side of the mound, but it was damaged by a typhoon in 1982. Odate city carried out maintenance work on the mound, and a new Japanese pagoda tree was planted on top of the northern side of the mound. The milestone was designated as a historic landmark by Odate city on March 3, 1991.
 North side – Base diameter: 3.5 m Height: 1.4 m
 South side – Base diameter: 3.3 m Height: 1 m

板沢一里冢
≪市指定史跡≫

1604年在鹿角街道筋建造了一里冢,也分别在板沢与三浦设有两座成一对,现在只留下板沢的这一对。堆土而成的冢几乎保持原状,南侧的冢上曾有过生长了70~80年的槐树,在1982年因台风而遭到折损。
如今由大馆市重新整备,北侧的冢上还有后种的槐树。1991年3月3日被指定为大馆市的史迹。
北侧:底面直径约3.5m、高度约1.4m
南侧:底面直径约3.5m、高度约1.4m

板沢一裡塚
≪市指定史跡≫

1604年在鹿角街道筋建造了一裡塚,也分別在板沢與三浦設有兩座成一對,現在只留下板沢的這一對。堆土而成的塚幾乎保持原狀,南側的塚上曾有過生長了70~80年的槐樹,在1982年因颱風而遭到折損。
如今由大館市重新整備,北側的塚上還有後種的槐樹。1991年3月3日被指定為大館市的史跡。
北側:底面直徑約3.5m、高度約1.4m
南側:底面直徑約3.5m、高度約1.4m

อิทะซะวะอิชิริชึกะ
《ซากโบราณสถานทางประวัติศาสตร์กำหนดโดยเมือง》

อิชิริชึกะถูกสร้างขึ้นเมื่อปี 1604 ที่ทางหลวงคะชึโนะซึ่งได้ถูกสร้างขึ้นสองแห่งในอิทะซะวะและมิอุระทว่าในปัจจุบันคงหลือแค่อิทะซะวะแห่งเดียว เนินดินยังคงสภาพแบบในปัจจุบันซึ่งเนินดินทางฝั่งทิศใต้เคยมีต้นเอ็นจู (ต้น sophora)เติบโตอยู่นาน 70~80 ปีทว่าได้โค่นหักด้วยใต้ฝุ่นในปี 1982 ในปัจจุบันทางเมืองโอดาเทะได้บูรณะแล้วปลูกต้นเอ็นจูที่เนินดินทางฝั่งทิศเหนือ ในปี 1991 ได้ถูกกำหนดให้เป็นโบราณสถานทางประวัติศาสตร์ในวันที่ 3 มีนาคม 1991
ทิศเหนือ : เส้นผ่านศูนย์กลางจากพื้นดิน 3.5m , สูงประมาณ 1.4 m
ทิศใต้ : เส้นผ่านศูนย์กลางจากพื้นดิน 3.3m , สูงประมาณ 1 m

이타자와 이치리즈카
 ≪시 지정 사적≫

 가즈노 가도 변에 1604년, 이치리즈카(여행자가 알 수 있게 대로 변 약 4km 마다 설치한 흙더미)가 만들어지게 되어 이타자와와 미우라에도 만들어졌으나, 현재는 이타자와에만 남아 있습니다. 흙더미는 거의 그대로 남아 있으며, 남쪽 흙더미 위에는 약 70~80년 된 회화나무가 심어져 있었으나, 1982년의 태풍으로 부러져 버렸습니다. 현재는 오다테시에서 재정비했으며, 북쪽 흙더미 위에는 옛 회화나무의 뒤를 잇는 회화나무가 심겨져 있습니다. 1991년 3월 3일 오다테시의 사적으로 지정되었습니다.
 북쪽:바닥면 직경 약 3.5m, 높이 약 1.4m
 남쪽:바닥면 직경 약 3.3m, 높이 약 1m


日本語詳細
№25 板沢(いたざわ)一里塚(いちりづか)   

市指定文化財(史跡)平成3年3月3日指定
所在地 大館市板沢字乙上野。鹿角街道筋に慶長9年(1604)一里塚が築かれ、板沢と三浦にもそれぞれ二基一対設けられた。現在板沢は一対あるが、三浦は南側の塚のみが現存している。
 板沢の一里塚は、天和2年(1682)の「領中大小道程帳」の秋田藩領における一里塚分布図に記載されており、岩瀬から分岐し、米代川左岸沿いに扇田・十二所を経て土深井堺を越えて南部領松山村(現鹿角市)へ入る羽州街道の脇街道・鹿角街道(8里13町40間=35.9km)の途中にあるもので、土盛りの塚はほぼ原状を保っている。塚上の樹木については、長年月の間に幾度かの新旧及び樹種の交代があったと推察され、南側の塚上には、槐(えんじゅ)約70~80年生があったが、昭和57年(1982)の台風によって折損した。現在は大館市により改めて整備され、北側塚上には跡継ぎの槐が植えられている。
 北側:大館市板沢字乙上野44番地 底面直径約3.5m、高さ約1.4m
 南側:大館市板沢字乙上野43番地 底面直径約3.3m、高さ約1m
 なお、隣接する「菅江真澄の道」の標柱に菅江真澄の歌が記されている。
  吾妻路の春とやいはむ  不二乃峰(ふじのみね)能(の)雪(ゆき)よ里(り)明(あけ)天(て)  まつ霞(かす)む天(そら)  真澄

 文政4年(1821)正月9日、板沢の五十嵐朗明(本名富士松)宅(現五十嵐經宅)で、十二所石井青互以下13名の俳人が集まった歌会に列席した際に残した歌である。この歌は、真澄が朗明へ贈った「旅寝しつる」に記されている。
 このことから、真澄は真中地区を3度訪れていることが明らかになった。文政3年12月20日から翌文政4年2月末までの真澄の動静が不明であったので、この記録は貴重なものである。 

「旅寝しつる」より(五十嵐家収蔵)