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No.27 大館役屋・岩沢太冶兵衛居宅跡

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大館役屋(おおだてやくや)・岩沢太冶(いわさわたじ)兵衛(べえ)居宅跡
役屋は田町にあった秋田藩の地方行政を担当した役所です。郡奉行(こおりぶぎょう)配下の郡方吟味役(こおりかたぎんみやく)が常勤し、大館の肝煎は役屋で指示を受け、村々と連絡をとりました。中町で生まれた岩沢太治兵衛(1820~1898)は天保の大飢饉にあたり窮民を救済。大館肝煎として備荒貯蓄を進め、戊辰戦争の被災者に蓄積米を放出しました。明治以後も地域振興に尽力しました。その後、役屋の払い下げを受けて自宅とし柳南亭(りゅうなんてい)と名付けました。石川理紀之助は太冶兵衛を秋田四老農の一人に選んでいます。

Remains of Odate Administrative Building and Iwasawa Tajibe Residence
This building is where the administration for the local Akita clan in Tamachi was housed, managing compulsory labor required by law at the time. Gorikata Ginmiyaku was employed here under the rule of Kori Bugyo, and he contacted the nearby villages after receiving instructions as Odate’s supervisor at the administrative building. Later, Iwasawa Tajibe (1820 – 1898), born in the Nakamachi area of Odate, helped people who were in need during the Great Tenpo Famine. As Odate’s supervisor, he advanced the famine relief efforts, and rice that had been gathered was then given to those affected by the Boshin War. Starting in the Meiji period (from 1868), people at the administrative building worked to promote the local area. Later, the building was sold as a private residence, and was renamed “Ryunantei”. Ishikawa Rikinosuke selected Iwasawa Tajibe as one of the 4 Great Farmers of Akita.

大馆役屋・岩沢太治兵卫居宅遗迹
役屋位于田町,是主管秋田藩的地方行政的役所。郡奉行管辖的郡方吟味役在此供职,大馆的肝煎在役屋接收指示,联络各村。出生于中町的岩沢太治兵卫(1820~1898)在天保大饥荒时期救济贫民。作为大馆肝煎推进备荒储蓄,给戊辰战争的受害者发放蓄积米。明治以后也为尽力振兴地域。其后,接收转让的役屋,当作私宅,称为柳南亭。石川理纪之助将太治兵卫选为秋田四老农之一。

大館役屋・岩沢太治兵衛居宅遺跡
役屋位于田町,是主管秋田藩的地方行政的役所。郡奉行管轄的郡方吟味役在此供職,大館的肝煎在役屋接收指示,聯絡各村。出生於中町的岩沢太治兵衛(1820~1898)在天保大饑荒時期救濟貧民。作為大館肝煎推進備荒儲蓄,給戊辰戰爭的受害者發放蓄積米。明治以後也為盡力振興地域。其後,接收轉讓的役屋,當作私宅,稱為柳南亭。石川理紀之助將太治兵衛選為秋田四老農之一

ซากโบราณสถานโอดะเทะยะคุยะ
บ้านพักของอิวะสะวะทะจิเบ
ยะคุยะเป็นสถานที่ราชการที่รับผิดชอบการบริหารท้องถิ่นของตระกูลอะคิตะ โคโอริคะทะกินมิยะคุผู้อยู่ใต้บังคับบัญชาของโคโอริบุเคียวประจำการอยู่ที่นี่โดยรับเรื่องจากโอดะเทะเพื่อประสานงานติดต่อกับหมู่บ้าน อิวะสะวะทะจิเบ(1820-1898) ที่เกิดในนะคะโชได้ให้ความช่วยเหลือบรรเทาทุกข์จากภัยยากไร้ครั้งใหญ่แห่งยุคเทมโป ในฐานะที่เป็นผู้รับเรื่องให้ความช่วยเหลือได้ดำเนินการรวบรวมทรัพย์สมบัติที่ออมแล้วแจกจ่ายข้าวให้กับผู้ที่ประสบภัยสงคราม หลังช่วงยุคเมจิก็ให้ความช่วยเหลือต่อมา หลังจากที่ยะคุยะถูกเวนคืนที่ดินก็ได้ถูกตั้งชื่อว่าริวนันเท อิชิคะวะริคิโนะสุเกะได้เลือกทะจิเบให้เป็นหนึ่งในสี่ผู้ชี้แนะด้านการเกษตรแห่งอะคิตะ

오다테 야쿠야・이와사와 다지베 저택 터
야쿠야는 다마치에 있던 아키타번의 지방 행정을 담당한 관청입니다. 고리부교(고을 행정관) 배하의 고리카타긴미야쿠(고을 검찰관)가 상근하며, 오다테의 촌장은 야쿠야에서 지시를 받아 여러 마을과 연락을 취했습니다. 나카마치에서 태어난 이와사와 다지베(1820~1898)는 텐포의 대기근 때 곤궁한 백성들을 구제했으며, 오다테 촌장으로 흉년을 대비한 저축에 힘써, 보신 전쟁의 피해자에게 비축미를 나눠주고, 메이지 시대 이후에도 지역 발전을 위해 노력했습니다. 그 뒤, 야쿠야를 불하 받아 자택으로 삼고 류난테라 이름 붙였습니다. 이시카와 리키노스케는 다지베를 아키타 4대 농업지도자 중 한 명으로 꼽았습니다.

日本語詳細
№27 大館(おおだて)役屋(やくや)・岩沢(いわさわ)太(た)治(じ)兵衛(べえ)居宅(きょたく)跡(あと)

所在地 大館市字土飛山下地内
役屋は田町の端にあった。江戸時代後半の寛政7年(1795)、秋田藩は郡奉行(こおりぶぎょう)を置き、その配下の郡方吟味役(こおりかたぎんみやく)が大館町の役屋(やくや)に常勤した。大館を親郷(おやごう)とする寄郷(よりごう)の村々は大館の役屋に属した。その寄郷の村には、芦田子・下代野・池内・大茂内・雪沢・岩瀬・根下戸・山田・片山村など18ヵ村があった。親郷の肝煎(きもいり)は役屋に詰めて所属の寄郷の村々に役所からの命令を伝え、村々の紛争調停の役目を果たしていた。
幕末に大館親郷肝煎となった4代目岩沢太治兵衛( 1820 ~1898 ) (写真)は幕末から明治にかけて備荒貯蓄を進め、地域振興に尽力した。先祖は蟹沢姓を称したが、岩沢姓に変え太治兵衛を名乗った。4代目太治兵衛は文政3年大館町中町に生まれた。幼名は文五郎。江帾掃部(えばたかもん)の塾に学んだ。
天保3年(1832)から同7年にかけての全国的な飢饉は秋田地方にも及び、特に4年は後世に「巳年(みどし)のケカチ」といわれるほどの大飢饉を起こした。大館町役屋の封前見習(ほうまえみならい)になったのは13歳。父とともに救済にあたった。天保7年父の死により、文五郎は4代目太治兵衛を襲名し、その3年後には封前になった。このころ、窮民救済の備荒貯蓄の必要性を説いて回り、肝煎石田宗右衛門ら町の有力者が協力して自主組織を設立した。「田畑郷助」の名のもと、「田畑からのあがりによって郷人(村人)を助ける」というもので、田畑の収益を財源として、米・薪炭などを給付した。嘉永末年には田地5町4反余、畑地3町1反余が蓄積されている。この団体は明治になって大館田郷感恩講となり、今日の社会福祉法人大館感恩講に受け継がれている。弘化4年(1847)大館肝煎となり、その後大館親郷肝煎になった。
慶応4年(1868)戊辰戦争が起こり、大館地方は戦火による大きな被害を受けた。太治兵衛は「国破れて何の貯蓄ぞ」と主唱し、蓄積米を残ることなく放出させた。明治5年(1872)戸長(町村の代表)、翌年地券取調御用係となった。明治11年石田県令から勧業御用係に任命されると、植林を進め、勧業施策の推進に尽力した。太治兵衛は大館町の役場ができるまで、田町の役屋で生活し、町村制施行のさい、払い下げを受けて自宅とし柳南亭(りゅうなんてい)と名付けた。そのいわれは天保の飢饉で死んだ人たちを埋めた後に一本柳があり、その南にあたるからといわれる。

岩沢太治兵衛