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No.22 三哲神社

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三(さん)哲(てつ)神社(じんじゃ) 
祭神は千葉上総介秀胤。1666年に十二所で医業を営み、三哲様と呼ばれ尊敬されていました。治療代は貧しい者から受け取りませんでした。十二所城代と町の富豪が助けてもらったのに代金を払わなかったことから、年貢米や運送米を取り押さえて貧民に与えました。そのため、大滝の温泉場で捕えられ処刑されました。人々は三哲を蝦夷ヶ森に葬り、神社を建てました。それから、ここを三哲山というようになりました。十二所では火事が続き、三哲の怨念とみられました。神社に褌と下駄を奉納するのは住民の思慕と同情の現れといわれています。

Santetsu Shrine
Chiba Kazusanosuke Hidetane is enshrined here. Known as Mr. Santetsu and highly respected, he managed a medical practice at Junisho in 1666. He offered his services for free to those who were poor. Junisho’s castle keeper and other wealthy people in the area helped Santetsu, but instead of paying them, he took the money from various taxes and gave it to the poor. This is why he was captured at the Otaki hot springs and executed. The people buried him in Ezogamori Forest, and built a shrine there. From then on, the area was known as Mount Santetsu. After his death, many fires plagued Junisho, and the people of the time saw it as Santetsu’s curse. It is said that out of desperation and compassion, the local people began leaving loin cloths and wooden clogs as an offering at the shrine.

三哲神社
祭神是千叶上总介秀胤。1666年在十二所经营医学,被誉为三哲先生,受人们尊敬。他不收取贫困者的医药费。
十二所的城代和城里的富豪看病后不给钱,因此他便扣留了年贡米和运送米,发放给贫民。因此,他在大滝温泉场被捕,并被行刑。人们把三哲埋葬于蝦夷森,建了神社。从此,人们把这里称为三哲山。接着十二所就发生了火灾,此事被视为因三哲的怨念而起。居民为神社奉上兜裆布与木履,据说是为了表达他们的思慕与同情。

三哲神社
祭神是千葉上總介秀胤。1666年在十二所經營醫學,被譽為三哲先生,受人們尊敬。他不收取貧困者的醫藥費。
十二所的城代和城裡的富豪看病後不給錢,因此他便扣留了年貢米和運送米,發放給貧民。因此,他在大滝溫泉場被捕,並被行刑。人們把三哲埋葬於蝦夷森,建了神社。從此,人們把這裡稱為三哲山。接著十二所就發生了火災,此事被視為因三哲的怨念而起。居民為神社奉上兜襠布與木履,據說是為了表達他們的思慕與同情。

ศาลเจ้าซันเทชึ
บูชาเทพเจ้าชิบะฮิเดะทะเนะ ในปี 1666 บริหารกิจการทางการแพทย์ที่จูนิโสะแล้วได้รับความเคารพโดยถูกเรียกว่าท่านซันเทชึ ซึ่งเขาไม่รับเงินจากผู้ป่วยที่ยากไร้ จากการที่ผู้ปกครองปราสาทจูนิโสะและเศรษฐีของเมืองไม่ยอมชำระเงินค่ารักษาทั้งๆที่ถูกช่วยเหลือ จึงทำมให้เขาระงับการจ่ายภาษีข้าวและการจัดส่งข้าวแล้วนำไปแจกจ่ายให้กับประชาชนที่ยากจนแทนทำให้เขาถูกจับกุมที่น้ำตกใหญ่ของแหล่งออนเซ็นแล้วถูกประหารชีวิตที่นั่น ผู้คนต่างนำศพเขาไปฝังที่ป่าเอโซะกะแล้วสร้างศาลเจ้าขึ้นมา จากนั้นเป็นต้นมาที่แห่งนี้จึงถูกเรียกว่าภูเขาซันเทชึ ที่จูนิโสะเกิดไฟไหม้ขึ้นอย่างต่อเนื่องซึ่งเชื่อกันว่าเป็นแรงอาฆาตของซันเทชึ การที่ศาลเจ้าแห่งนี้ถูกนำผ้าชุดชั้นในฟุนโดชิและรองเท้าเกี๊ยะมาบูชากราบไหว้เป็นเพราะการแสดงออกถึงความคิดถึงและความสงสารของประชาชน

산테쓰 신사 
모셔진 신은 지바 가즈사노스케 히데타네. 1666년, 주니쇼에서 의업에 종사하여 산테쓰님이라 불리며 존경받은 사람으로, 가난한 이에게는 치료비를 받지 않았습니다. 주니쇼의 성주 대리와 마을의 부호를 도와줬는데도 치료비를 내지 않자 세미와 운송미를 압류하여 빈민들에게 나눠줘, 오타키 온천장에서 사로잡혀 처형되었습니다. 사람들은 산테쓰를 에조가모리에 장사 지내고 신사를 지었습니다. 그 뒤, 이곳을 산테쓰야마라 부르게 되었습니다. 주니쇼에는 화재가 끊이지 않아, 산테쓰의 원한으로 인한 것이라 여겨지게 되었습니다. 신사에 훈도시와 나막신을 봉납하는 것은 그를 향한 주민들의 사모와 동정의 뜻을 나타내기 위한 것이라 합니다.

日本語詳細
№22 三(さん)哲(てつ)神社(じんじゃ)

所在地 大館市十二所字中岱227。三哲山(393m)の中腹に建つ。祭神は千葉上総介秀胤(下戸前常政ともいう)。17世紀の実在の人物である。秀胤は南部九戸の浪人で、江戸に出て文・武・医の道を究め、医者となって、人々から三哲様と呼ばれ尊敬されていた。寛文5年(1665)南部大湯の千葉家で過ごしたので千葉姓を名乗るようになった。翌年十二所に移り、医業を営み武芸を教えた。日々、一枚歯の足駄をはいてススキの湯といわれた大滝温泉に通う姿は変人の風であった。その治療代は富裕な人には求めたが、貧しい人からは受け取らなかったという。
あるとき、国老梅津半左衛門が十二所に来て治療を求め、その才を藩主に伝えた。藩主は三哲を召し出して弓矢の術をためし、その見事さに感動し、200石で召し抱えようとしたが従わなかった。また、大工の技術を学びに来た武田三益の祖に医学を教授し、それ以来武田家は歴代医家を続けたという。
十二所城代塩谷民部重綱は重病の時、三哲の治療を受けて全快したが、約束の謝礼米を払わなかったので年貢米を取り押さえ貧民に与えた。また、町の富豪佐藤儀右衛門は妻の難産を助けてもらったが、約束の代金を払わなかったので運送米を取り押さえた。このような豪気で、義侠心の強い三哲に対し、だまし討ちの計画が練られ、大滝温泉で入浴中に捕縛され刑に処された。死に臨んで、「罪なきを殺すは無道の極み、我必ず恨みを果たすべし」といった。
人々は願い出て遺言通り蝦夷ヶ森に葬り、数年後神社を建てた。それから、ここを三哲山と呼んだ。延宝4年(1676)の大火をはじめ十二所では火事が続いたが、それは三哲の怨念とみられた。災いは三哲に敵対した者に特に及んだという。
三哲神社のそばの手水鉢(ちょうずばち)は三哲がつくったものといわれる。神社によく褌(ふんどし)や下駄が奉納される。それは、足駄を鳴らして大滝温泉へ通った三哲への住民の思慕であるとともに、褌さえつけておれば難を逃れることができたのではないかという住民の同情の現れであるという。
三哲山 神社は中腹にある