Skip to content

No.26 大葛金山跡・大葛金山墓地

日本語English简体字繁體字ภาษาไทย한국어

大葛(おおくぞ)金山(きんざん)跡(あと)・大葛(おおくぞ)金山(きんざん)墓地(ぼち)
金山は浅利氏が支配した16世紀に始まる。佐竹氏が国替えとなり、金山の経営が推進され、1616年の金5両をはじめ元和年間には毎年のように金を幕府に運上していました。このころから、秋田藩の有力な金山として知られました。江戸後期になって荒谷氏が本格的に金山経営に参加しました。明治になって、工部省の直轄を経て三菱の経営となり、1975年資源の枯渇により閉山しました。近くに金山製錬所跡、荒谷家宅地跡、大葛金山墓地があります。墓地に残存する大小さまざまな墓石から金山のむかしをしのぶことができます。

Remains of Okuzo Gold Mine Okuzo Gold Mine Cemetery
This gold mine began operating in the 16th century under the rule of Asari. With the transference of the ruling position to Satake, the mine’s administration was further promoted, and gold was used by the ruling samurai almost every year during the Genna era (1615 – 1624), including for gold coins in 1616. It was then that it became known as the “powerful gold mine of the Akita clan”. In the latter half of the Edo period (1603 – 1867), Araya became actively involved in the mine’s administration. During the Meiji period (1868 – 1912), the mine came under the jurisdiction of the Ministry of Engineering and was managed by Mitsubishi, but was closed in 1975 when its natural resources were depleted. Nearby, you can find the remains of the Kinzan Smelting Works, the Araya family estate, and the Okuzo Gold Mine Cemetery. You can think of this gold mine and its past at the nearby cemetery, where many various large and small grave stones still remain.

大葛金山遗迹・大葛金山墓地
金山始于浅利氏统治的16世纪。佐竹氏更换领地后推进金山的经营,从1616年的5两金子起,在元和年间,每年都将金子运往京都上缴给幕府。此后,作为秋田藩实力雄厚的金山,为世人所知。到了江户后期,荒谷氏正式加入金山的经营。到了明治时代,经过由工部省直接管辖,再由三菱经营,1975年因资源枯竭而封山。
附近有金山冶炼所的遗迹、荒谷家的宅地遗迹、大葛金山墓地。可从墓地上残存的大小各异的墓石,缅怀金山的过去。

大葛金山遗迹・大葛金山墓地
金山始於淺利氏統治的16世紀。佐竹氏更換領地後推進金山的經營,從1616年的5兩金子起,在元和年間,每年都將金子運往京都上繳給幕府。此後,作為秋田藩實力雄厚的金山,為世人所知。到了江戶後期,荒穀氏正式加入金山的經營。到了明治時代,經過由工部省直接管轄,再由三菱經營,1975年因資源枯竭而封山。
附近有金山冶煉所的遺跡、荒穀家的宅地遺跡、大葛金山墓地。可從墓地上殘存的大小各異的墓石,緬懷金山的過去。

ซากโบราณสถานเหมืองทองคำโอคุโสะ/สุสานเหมืองทองคำโอคุโสะ
เหมืองทองคำได้เริ่มจากการปกครองของตระกูลอะสะริในศรรตวัติที่ 16 เมื่อตระกูลซะทะเกะเข้ามาปกครองท้องถิ่นการบริหารเหมืองทองคำได้รับการส่งเสริมซึ่งในปี 1616 การส่งมอบเงินภาษีการปกครองให้กับรัฐบาลโชกุนด้วยทองคำจำนวน 5 เรียวได้เริ่มขึ้นและดำเนินต่อเนื่องมาทุกปี ซึ่งในช่วงดังกล่าวเป็นที่รู้จักในนามเหมืองทองคำแห่งตระกูลอะคิตะ ในช่วงยุคเอโดะตอนปลายตระกูลอะระยะได้เข้ามาบริหารเหมืองทองคำอย่างจริงจัง เมื่อเข้าสู่ยุคเมจิกระทรวงอุตสาหกรรมเข้ามาบริหารโดยตรงจนกลายเป็นการบริหารโดยมิตซูบิชิทว่าในปี 1975 เหมืองได้ถูกปิดจากการขาดแคลนทรัพยากรณ์ในเหมือง ในบริเวณใกล้เคียงมีซากโบราณสถานโรงหลอมเหมืองทองคำ , ซากโบราณสถานบ้านตระกูลอะระยะ , สุสานเหมืองทองคำโอคุโสะ สามารถชมภาพอดีตของเหมืองทองคำจากหินสุสานขนาดเล็กใหญ่ที่หลงเหลือภายในสุสารได้

오오쿠조 금광 터・오오쿠조 금광 묘지
금광은 아사리씨가 다스리던 16세기에 발견되었습니다. 임지 교체로 사타케씨가 이곳으로 옮겨온 뒤 금광 경영이 추진되어, 1616년의 금 5냥을 시작으로 겐나 시대(1615~1624년)에는 거의 매해 막부에 금을 상납했습니다. 이 무렵부터 아키타번의 유력한 금광으로 유명해졌습니다. 에도 시대 후기에 이르러 아라야씨가 본격적으로 금광 경영에 참가했습니다. 메이지 시대가 되어 공부성 직할을 거쳐 미쓰비시가 경영하게 되었으며 1975년, 자원 고갈로 인해 폐광하게 되었습니다. 근처에 금광 제련소 터, 아라야 씨 저택 터, 오오쿠조 금광 묘지가 있습니다. 묘지에 남아 있는 여러 크고 작은 묘비에서 금광의 옛 모습을 돌아볼 수 있습니다.


日本語詳細
№26 大葛(おおくぞ)金山(きんざん)跡(あと)・大葛(おおくぞ)金山(きんざん)墓地(ぼち)

所在地 大館市比内町大葛字金山。金を多く産出したため大葛金山といわれ、鉱床はこの付近一帯にあった。金山は浅利氏が支配した16世紀に始まる。佐竹氏が常陸から秋田に国替えとなり、金山の経営が推進され、元和2年(1616)の金5両をはじめ元和年間には毎年のように運上金を幕府に納めている。このころから、大葛金山は秋田藩の有力な金山となった。家数も元和3年には164を数えた。国替え初期には南部藩との境界争いが発生している。
秋田藩の鉱山は直山(じきやま)と請山(うけやま)に大別されるが、これは固定されたものでなく、経営の状態によって変更された。直山は藩が鉱山経営者である民間人(山師)から直接に諸役運上金を徴収するもので、請山とは民間人が採掘にあたって一定の運上金を領主に納めて1ヶ年、あるいは3、5年にわたって経営を請け負うものである。大葛金山では直山と請山とが何度か繰り返された。
早くから金山に居住していた荒谷氏が金山経営に本格的に参加したのは宝暦期からと見られている。宝暦9年(1759)の山中総人数は537人。そのうち約400人が鉱山内の労働に従事していた。
菅江真澄は享和3年(1803)5月4日に大葛の荒谷富訓(とみくに 忠右衛門 但し真澄の著書「すすきの出湯」では荒河富訓と記す)のもとに宿を借り、翌日大葛金山を訪れている。荒谷氏の経営は明治2年(1869)まで続いた。金生産量には盛衰があった。文政8年(1825)から天保9年(1838)までの年間の灰吹金生産高は5貫匁~7貫匁台の高い水準を維持し、天保8年には11貫匁を突破している。この時期には生産量が多かった。
戊辰戦争では南部軍の侵攻路となり、被害を受けた。
明治3年秋田藩の経営になったが、明治6年工部省の直轄となり、外国人技師3人が派遣された。明治21年には尾去沢の支山となり、三菱の経営となった。明治41年に休山したが、昭和になって再び稼行(かぎょう)し、10年代に盛期を迎えた。しかし、資源枯渇により昭和50年(1975)12月に閉山した。
現在、金山跡を物語るものはほとんどないが、近くに金山精錬所跡、荒谷氏屋敷跡、大葛金山墓地(写真)がある。墓地に残存する大小さまざまな墓石から金山の往時をしのぶことができる。大葛温泉に大葛金山ふるさと館があり、金山資料などを展示している。
大葛金山墓地