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No.31 実相寺の唐糸・釈迦内伝説

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実相寺(じっそうじ)の唐(から)糸(いと)・(・)釈迦内(しゃかない)伝説(でんせつ)
実相寺は1658年開創の曹洞宗の寺です。境内の釈迦堂は「初七日山釈迦堂」とも称し、鎌倉幕府の5代執権北条時頼(最明寺入道)と唐糸御前の伝説を残しています。時頼が隠退後諸国を廻っていた時、時頼の愛妾唐糸御前はねたみによって小舟で流され、津軽の藤崎にいました。ある日時頼が来ることを聞いて、唐糸は落ちぶれた身を恥じ沼に身を投げて命を絶ってしまいました。時頼はこれを深く悲しみ、供養のため釈迦如来像を作り、釈迦堂に納めたといわれています。釈迦内の地名はこの釈迦堂に由来するといわれています。

The Legend of Karaito and Shakanai

Jisso Temple was founded in 1658 and is part of the Soto school of Buddhism. On the premises is Shakado Hall, also known as Shonanokasan Shakado, and the Legend of Karaito and Hojo Tokiyori (Saimyoji Nyudo), the 5th regent of the Kamakura Shogunate, is remembered still today. After retiring as regent, Tokiyori toured all over Japan. His beloved Karaito sailed to Fujisaki in Tsugaru on a small boat out of jealously. One day, she heard that Tokiyori would be coming, but ashamed of her broken appearance, thrust herself into a swamp and perished. This brought great sadness to Tokiyori. It is said that he made a statue of the Buddha to remember Karaito and placed the statue in Shakado Hall. It is said that the Shakanai area also gets its name from Shakado Hall.

实相寺的唐纟、释迦内传说

实相寺为1658年开创的曹洞宗寺院。
寺院境内的释迦堂又称为“初七日山释迦堂”,这里流传着镰仓幕府5代执权北条时赖(最明寺入道)和唐纟御前的传说。传说中,时赖在退位后周游各国时,其爱妾唐纟御前遭受妒忌而蒙受不白之冤,搭乘小船被流放至津轻的藤崎。某天,唐纟听说时赖来此,因以带罪之身为耻,故投水自尽而死。时赖对此感到悲痛欲绝,为供养爱妾,时赖刻制一尊释迦如来像,供奉于释迦堂中。据说“释迦内”这个地名,即源于此释迦堂。

實相寺的唐糸、釋迦內傳說

實相寺為1658年開創的曹洞宗寺院。
寺院境內的釋迦堂又稱為「初七日山釋迦堂」,此處流傳鐮倉幕府5代執權北條時賴(最明寺入道)與唐糸御前的傳說。傳說中,時賴在退位後周遊各國時,其愛妾唐糸御前遭受妒忌而蒙受不白之冤,搭乘小船被流放至津輕的藤崎。某天,唐糸聽說時賴來此,因以帶罪之身為恥,故投水自盡而死。時賴對此感到悲痛欲絕,為供養愛妾,時賴刻製一尊釋迦如來像,供奉於釋迦堂中。據說「釋迦內」這個地名,即源於此釋迦堂。

ตำนานคะระอิโทะ ฉะคะไนแห่งวัดจิโซจิ

วัดจิโซจิเป็ นวัดแห่งศาสนาโซโทที5ก่อสร ้างขึ<น ในปี 1 6 5 8 อาคา รภายฉะคะโดในพื<นที5ของวัดมี ชื5อเ รียกว่า “ โชะนะนุกะยะมะฉะคะโด” ซึ5งมี ตำ นานกล่า วขานเกี5ยวกับโฮโทคิโยริรุ่นที5 5 แห่งรัฐบาลคะมะคุระ(ไซเมจินิวโด)และคะระอิ โทะโกะ เซ็น หลังจากที5โทคิโยริเกษียณงาน แล้วเดินทางตระเวนไปยังเมืองต่างๆ ด้วยการ เหน็บแหนมของนางสนมคนโปรดของโทคิโยริ ที5ชื5อคะ ร ะอิโทะโกะ เซ็นทำ ให ้ถูกปล่อยให ้ลอย เรือไปยังเมืองฟุจิซากิแห่งชึกา รุ วันนึงเมื5อ ทร าบเ รื5องว่าโทคิโยริจะ เดินทางมา คะ ร ะอิ โทะที5อับอายกับคว ามตกตํ5าของตนเองจึงยอม กร ะโดดฆ่าตัวตายในหนองนํ<า โทคิโยริรู้สึก เสียใจมากกับสิ5งที5เกิดขึ<นจึงได ้สร ้างรูปปั<นเทพ ฉะกะ เนียวไร เพ5ือเป็ นกา รทำ บุญใหกั้บคะ ร ะอิ โทะแล ้วปร ะดิษฐานในอาคา รฉะคะโด นี5จึงเป็น ที5มาของชื5อสถานที5ฉะคะไนซึ5งมีที5มาจาก อาคารฉะคะโด

짓소지의 가라이토, 샤카나이 전설

짓소지는 1658년 창건된 조동종 절입니다. 경내의 샤카도는 ‘쇼나노카샤카도’라고도 부르며, 가마쿠라 막부의 5대 집권인 호조 도키요리(사이묘지뉴도)와 가라이토 고젠의 전설이 남아 있습니다. 도키요리는 은퇴 후 여러 나라를 돌아보고 다녔습니다. 그때 도키요리의 애첩 가라이토 고젠은 질투로 인해 작은 배에 실려 쓰가루의 후지사키에 이르러 살고 있었습니다. 어느 날 도키요리가 온다는 말을 듣고, 가라이토는 자신의 시들어버린 초라한 모습을 부끄러워하여 늪에 몸을 던져 스스로 목숨을 끊었습니다. 도키요리는 이를 매우 슬퍼하여 공양을 위해 석가여래상을 만들어 샤카도에 바쳤다고 합니다. 샤카나이라는 지명은 이 샤캬도에서 유래한 것이라고 합니다.

日本語詳細
実相寺の唐糸・釈迦内伝説

所在地 大館市釈迦内字釈迦内43。実相寺は万治元年(1658)開創の曹洞宗の寺である。山号は微妙山。堂内に安置されている釈迦如来坐像、普賢菩薩騎象像、文殊菩薩騎獅像などは寄木造で、江戸時代の製作。聖観音菩薩坐像(寄木造)は元禄8年(1695)に寄進されている。釈迦堂の釈迦如来坐像(寄木造)も江戸時代の製作である。
 境内の釈迦堂は初七日山釈迦堂(しょなのかさんしゃかどう)とも称し、鎌倉幕府の執権北条時頼と唐糸御前(からいとごぜん)について、次のような伝説を残している。
 《鎌倉幕府の5代執権北条時頼(最明寺入道 さいみょうじにゅうどう)は、遠い地の様子を知りたいと剃髪して諸国を巡る旅に出ました。時頼には身の回りの世話をする7人の女性がおり、中でも美しい唐糸御前をとても大事にしていました。唐糸御前を日頃からねたんでいた女性たちは、留守を任された役人に唐糸御前を陥れる偽りの数々を訴えました。これを鵜呑みにした役人は、小船に唐糸御前を乗せて海に流してしまいました。
 船は苦難の末に遠い津軽の外ヶ浜に流れ着き、唐糸御前は生まれ故郷の藤崎の修験者に引き取られて暮らすことになりました。あまりに貧しく、つらい仕事に明け暮れる毎日が続き、いつしか花の姿も消えて落ちぶれ果てた姿になっていました。
 ある日、諸国を巡っていた時頼が津軽の藤崎に着きました。その時、唐糸御前は烏ヶ池で汚れた衣服を洗っていましたが、あたりを通る旅の僧を見て時頼であることに気づきました。しかし、落ちぶれた自分の姿を恥じて笠で顔を隠しました。その様子を見て、唐糸御前に違いないと思った時頼は、宿の主に確かめると、まさしく唐糸御前であることがわかりました。宿の主から時頼の胸中を聞いた唐糸御前は、「偽りの訴えのために流人になったとはいえ、もはやお顔を見ることすらできない身の上です」と書き置きして、烏ヶ池に飛び込んでしまいました。知らせを聞いた時頼は、国主に命じてねんごろに弔い、法名を善知婦人としました。
鎌倉に戻る途中、出羽の国日陽(ひなた)の里(現在の大館市釈迦内)に着いた日が初七日であったので、すすきが森(獅子ヶ森)から運ばせた樹木に釈迦仏を刻んで追善供養をしました。そして、この地を治めていた建部兄弟に、御像の祠を津軽に向けて小高い丘に建立することを依頼しました。

実相寺の唐糸・釈迦内伝説
実相寺
実相寺の唐糸・釈迦内伝説
釈迦堂
 出立の朝に乱川にかかる橋を渡ろうとすると、笈(おい)から遺髪の一部が川に落ちましたが、川面に浮かんだまま流れもせず、沈みもせず、漂うばかりでした。時頼は、亡くなった唐糸御前の魂がこの地に留まるからであろうと、自ら土を掘って遺髪を埋めました。また、後の目印になるように遺髪の上に木を植えました。時頼の嘆きはさらに深く、「いと恋し けふみちのくはるけきに ものうきことの なおいてはとは」と、一首の歌を詠みました。
 時頼は鎌倉に戻ってから、使いの者に祠を建てる費用など、たくさんのお金を持たせて、供養を請け負った建部のもとに届けました。その後、「初七日山釈迦堂」に納められた釈迦如来像は、地元や近隣の人々によって大事にされました。

実相寺の唐糸・釈迦内伝説
釈迦如来像と時頼・唐糸の位牌
 遺髪の落ちた橋は「髪垂橋(かみだれはし)」
(川の名は乱川)と呼ばれ、遺髪が埋められた地は、「いと恋し」から板子石(いたこいし)という地名となって残りました。板子石の山神社には、時頼が植えたとされる欅がありましたが、今はありません(大館市立釈迦内公民館発行「唐糸姫伝説の里釈迦内」より引用改変)》。釈迦内という地名は、この釈迦堂に由来するという。
 その後、時頼は南下しながら唐糸御前の法要を行い、土崎に二十七日山釈迦堂光明寺(現秋田市旭北寺町)を、西明寺(さいみょうじ 現仙北市西木町)に三十七日山光明寺(阿弥陀堂 現在は大国主神社)を建立したという。二十七日山釈迦堂光明寺阿弥陀堂には時頼が持ち歩いたといわれる仏像が祀られている。また西明寺の地名は時頼の最明寺に由来するといわれている。このように時頼の廻国伝説は秋田に色濃く残っている。
実相寺の唐糸・釈迦内伝説
板子石の山神社
 鎌倉時代の津軽には北条氏の直轄領があり、この地を支配したのが藤崎や十三(じゅうさん)に
城を構えた蝦夷管領の安藤(東)氏である。廻国伝説が生まれたのは、この地が鎌倉幕府とのつながりが深かったことによると考えられる。
 平等教院(びょうどうきょういん)は唐糸御前が通っていたところといわれ、時頼はここに墓をつくったという。ここは現在藤崎町「唐糸御前史跡公園」として整備されている(藤崎町公式ホームページ)。旅姿の唐糸御前の像は鎌倉から藤崎に移動した際の姿なのか。愁いを帯びながらも凛として一歩を踏み出そうとする像に涙を誘われる。
 公園には、銅像の他、唐糸御前にまつわる松の古木や、石碑がある。            
実相寺の唐糸・釈迦内伝説
唐糸御前史跡公園