秋田フキ発祥の地
所在地 大館市雪沢字楢木岱76。
秋田フキは主に本州北部から北海道に分布している。葉柄は1mから2m、葉の直径は1.5mとなり食用とする。秋田フキが名物として有名になった話が伝えられている。
寛延元年(1748)5代秋田藩主佐竹義峰(1690~1749)が江戸城に登城したとき、諸国の大名達がそれぞれ自国の名産を自慢しあった。義峰は「秋田の長木沢の蕗は太さが竹のようであり、葉は傘(かさ)のようである」と自慢した。諸大名はこの大蕗の自慢話に驚くとともに疑った。中でも、松平安芸守はあるはずがないと否定し、諸大名もこれを笑った。
義峰は屋敷へ帰ると、家臣に長木沢の蕗を採って江戸へ送るように命じた。この命令は長木沢の山見廻り人の阿部十(重)右衛門に伝えられた。十右衛門は、長木山中に入り大蕗2本を探し当てた。1本は周りが1尺2寸(約36cm)、長さが1丈2尺(約3.6m)で、他の1本は、周りが8寸(約24cm)、長さが1丈2尺もある大蕗であった。この蕗は飛脚により江戸の藩邸に届けられた。その後、義峰は自邸の床の間へ鉢植えにしてこの蕗を飾り、蕗を用いた料理で、幕府の大目付役と諸大名をもてなしたところ、皆驚き安芸守は無礼を深くわびたという。
長木沢一帯は藩政期の天然秋田杉の大産地であるが、大蕗が生育する所であった。長木沢は秋田フキの名を世に広めたことから発祥の地といわれている。ここに出ている十右衛門は宝暦5年(1755)の地元史料に見える長木沢御山守〈おやまもり〉重右衛門のことと思われる。御山守は1年を通して山廻りをして山林の取り締まりにあたる役である。彼は長木沢の雪沢村に居住していた。
寛政8年(1788)幕府巡見使に随行し東北地方から蝦夷地まで視察した古川古松軒(1726~1807)が自著『東遊雑記』に「大蕗は大館より北1里余の長木山と岩瀬(大館市岩瀬)に生育する。大きいのは長さ6尺、山の深い谷に生えるが、道端にも太さ2,3寸の蕗を見かけた」と記している。菅江真澄も享和3年(1803)大館に来たとき長木沢に大きな山蕗があると記している。
江戸時代に成立した秋田音頭に「秋田の国では、雨が降っても、唐傘などいらぬ、手ごろの蕗の葉、サラリとさしかけさっさと出て行がえ」の歌詞がある。ゆきさわ産直センターに秋田フキ発祥の地の石碑が建てられている。
According to legend, in 1748, when Satake Yoshimine, the fifth lord of Akita, visited Edo castle, each daimyo boasted about their own domain’s specialties. Yoshimine boasted that the butterbur of Nagakisawa was thick like bamboo and its leaves were like umbrellas. They laughed and doubted that. In response, Yoshimine sent two big butterburs from Nagakisawa to Edo and invited the daimyos to see for themselves. They were surprised and apologized for their disrespect. Nagakisawa is said to be the origin of Akita’s butterbur.
相传此地以名产秋田蜂斗菜而闻名。1748年,第5代秋田藩主佐竹义峰登上江户城时,各国的大名纷纷夸耀本国的名产。而义峰则夸耀说“秋田长木川的蜂斗菜茎粗似竹,叶大如伞。”各国大名纷纷偷笑表示怀疑。义峰遂差人送来2棵长木川的大蜂斗菜,在藩主的宅邸内招待了包括幕府的督察在内的各位大名。据说大家非常吃惊,纷纷为自己的无礼致歉。因为长木川使得秋田蜂斗菜广为人知,故被称为秋田蜂斗菜的发源地。
秋田蜂斗菜 以秋田为中心的东北地区生长的一种大型蜂斗菜,叶柄可高达2米。
相傳此地以名產秋田蜂斗菜而聞名。 1748年,第5代秋田藩主佐竹義峰登上江戶城時,各國的大名紛紛誇耀本國的名產。而義峰則誇耀說“秋田長木川的蜂斗菜莖粗似竹,葉大如傘。”各國大名紛紛偷笑表示懷疑。義峰遂差人送來2棵長木川的大蜂斗菜,在藩主的宅邸內招待了包括幕府的督察在內的各位大名。據說大家非常吃驚,紛紛為自己的無禮致歉。因為長木川使得秋田蜂斗菜廣為人知,故被稱為秋田蜂斗菜的發源地。
秋田蜂斗菜 以秋田為中心的東北地區生長的一種大型蜂斗菜,葉柄可高達2米。
กล่าวกันว่าพื้นที่แห่งนี้มีชื่อเสียงในเรื่องต้นอาคิตะฟุคิ (บัตเตอร์เบอร์ยักษ์)ในปี 1748 ซาตาเกะ โยชิมิเนะไดเมียวแห่งอาคิตะรุ่นที่ 5 ได้ไปเยือนปราสาทเอโดะ ไดเมียวแห่งดินแดนต่างๆได้กล่าวถึงของดีประจำดินแดนของตนอย่างภาคภูมิใจ โยชิมิเนะได้กล่าวอย่างภูมิใจว่า”ต้นฟุคิของนางาคิซาวะที่อาคิตะมีความหนาราวกับไม้ไผ่ และใบเหมือนกับร่ม” ทำให้ไดเมียวทั้งหลายหัวเราะปนสงสัย โยชิมิเนะได้ส่งต้นฟุคิใหญ่ 2 ต้นของนางาคิซาวะไปยังเอโดะ แล้วเชิญผู้ตรวจการของรัฐบาลบาคุฟุรวมทั้งไดเมียวต่างๆมายังคฤหาสน์ของรัฐบาล กล่าวกันว่าทุกคนถึงกับรู้สึกตกใจและกล่าวขอโทษท่าน กล่าวกันว่านางาคิซาวะกลายเป็นพื้นที่กำเนิดต้นอาคิตะฟุคิหลังจากที่อาคิตะฟุคิได้เป็นที่รู้จักกันอย่างแพร่หลาย
อาคิตะฟุคิ(บัตเตอร์เบอร์ยักษ์) ต้นฟุคิ(บัตเตอร์เบอร์)ขนาดใหญ่ที่เพาะปลูกในเขตโทโฮคุ เช่น จังหวัดอาคิตะ เป็นต้น ความยาวของก้านใบนั้นยาวถึง 2 เมตรเลยทีเดียว
이곳에서는 아키타 머위가 명물로 유명해진 이야기가 전해져오고 있습니다. 1748년, 5대 아키타 번주인 사타케 요시미네가 에도성에 갔을 때, 전국의 다이묘들이 각각 자기 지방의 명산물을 자랑하고 있었습니다. 요시미네는 「아키타 나가키사와의 머위는 두께가 대나무와 같고, 그 잎의 크기가 우산과 같다」 고 자랑하였습니다. 그러나, 다이묘들은 그의 말을 의심하며 비웃었습니다. 요시미네는 나가키사와의 큰 머위 두 개를 에도에 보내, 제후의 저택에서 막부의 오메츠케를 비롯해 다이묘들에서 선보였습니다. 모두 놀라하며 이전의 무례를 깊이 사과하였다고 전해지고 있습니다. 나가키사와는 아키타 머위의 이름을 세상에 퍼트린 것으로 부터 발상지라고 불려졌습니다.
아키타 머위: 아키타를 시작하여, 동북지방에서 나는 큰 머위로, 입자루의 높이가 2m에 이릅니다.