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N0.8 錦神社

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錦(にしき)神社
所在地 大館市二井田字上出向地内。犀川にかかる二井田橋の東にある。

 文治5年(1189)閏4月藤原泰衡は義経を討って源頼朝にこたえたが、7月頼朝は大軍(28万4000騎)を動員し、平泉攻撃を開始した。8月8日阿津賀志山(あつかしやま 宮城・福島県境)で平泉軍の総大将西木戸太郎藤原国衡の陣を破ると同22日に頼朝は平泉に達し、紫波郡陣ヶ岡(岩手県紫波町)に本陣を置いた。
 泰衡は多賀国府の南に陣をしいていたが、頼朝の追撃が急なため、平泉にとどまることもできず、居館に火を放ってのがれた。頼朝が着いたときは平泉の三代の栄耀は灰となり秋風が吹いていた。8月下旬泰衡は従者を使って御家人にするか、死一等を減じて遠流(おんる)程度にして許しを請う哀訴状を頼朝のいる旅館に投げ入れさせた。その書状から泰衡が比内郡(ひないぐん 大館・北秋田地方)) にいることを知った頼朝は早速軍勢を比内郡に出して泰衡の捜索を命じた。 
 それから間もなく、泰衡は比内郡贄柵(にえのさく 大館市二井田付近にあった施設。贄の里の地名がある)で9月3日河田次郎(かわたのじろう)に殺された。泰衡は夷狄嶋(いてきのしま 蝦夷地)に渡ろうとして河田次郎を頼りにしたが、河田は郎従などに取り囲ませて攻め殺した。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、このとき泰衡は35歳、秀衡次男、母は前民部少輔藤原基成女、父の後を継ぎ出羽陸奥押領使となったとある。
 9月6日河田は泰衡の首を陣ヶ岡の頼朝に届けた。鞭を揚げてとあるので、大急ぎで、しかも高揚した気分で馬を走らせたのであろう。泰衡の首は頼朝配下の梶原景時が預かり、和田義盛と畠山重忠が泰衡の従者の手を借りて首実検をして確認した。頼朝は河田をほめようとはしなかった。梶原景時は武略を用いて泰衡の命を奪う必要はなかった、しかも譜代(代々仕えている家臣)の恩を忘れて主人を殺すとは、罪は八虐(日本古代の法令で重罪とされたもの)に値すると叱責。そして、河田を見せしめのため斬刑に処した。
 村人たちは泰衡を哀れみ、首のない遺体を錦の直垂(ひたたれ)に包んでこの神社に祀った。社名の起こりはこれによっている。村人たちが泰衡を哀れみ、河田次郎に同情することがなかったのは『吾妻鑑』によったものであろう。
 これに対し、最近河田を擁護する研究がなされている。河田は比内郡贄柵を本拠とした郡司系の在地領主であり、数代かけて比内地方の開発にあたったと考えられる。自力で開発にあたったとなれば、平泉藤原氏に従っているとはいえ、恩義をあまり感じていなかったのではないかと思われる。河田は奥州合戦に参加した形跡がないので、十分に考えられることである。 
 河田は中立の態度をとり、勝敗がはっきりした所で頼朝側につき、頼朝の御家人となって先祖以来の比内郡での地位を守ろうとしたのであろう。中立の態度をとった者は他にもいたので、このことは河田氏だけでなく比内の人々にも理解できるものであったのではないか。しかし、頼朝はこの機会に河田を倒し、その領地を奪い取って御家人に与えようとしたのである。
 菅江真澄は享和3年(1803)6月2日にここを訪ね、泰衡の墓には鳥居と石があり、田の神(稲の豊作をもたらす神)と一緒に祀られていると『菅江真澄遊覧記』に記している。
 ここから南西約3kmの五輪台に泰衡夫人を祀った西木戸神社(大館市比内町八木橋字五輪台)がある。

Nishiki Shrine
                
Fujiwara no Yasuhira harbored Minamoto no Yoshitsune according to the will of his father, Hidehira, but succumbed to the pressure of the Kamakura shogunate, and attacked and killed Yoshitsune. In 1189, during the Oshu battle, he was defeated by Yoritomo’s army and escaped from Hiraizumi. After, he depended on Kawata Jiro in Hinai. But Kawata sent off his servants and killed Yasuhira and delivered his head to Yoritomo’s camp. Yoritomo wasn’t pleased at this and punished him for forgetting his ancestral obligation. The villagers pitied Yasuhira, wrapped his body in clothes made of beautiful silk (Nishiki in Japanese), and enshrined him in this shrine. The name of this shrine is derived from this story.
锦神社
                
藤原泰衡(1155~89)按照父亲藤原秀衡的遗言藏匿了源义经,却屈服于源赖朝的压力,攻打并杀害了源义经。1189年,泰衡在奥州合战中败给源赖朝的军队,逃至平泉,为奔赴虾夷地而投靠比内的随从河田次郎。但是,河田却向其军队进攻,并将泰衡的首级送到了赖朝的军中(岩手县紫波町阵冈)。尽管如此,赖朝却不为所喜,以忘记谱代之恩为由,将河田斩首。村民们同情泰衡,将其无首遗体包裹在锦缎作成的直垂(武士礼服)中,供奉于此神社内。神社的名字即由此而来。

直垂 古代的一种衣服。原为平民穿的衣服,
镰仓时代以后,成为了武士的礼服。

錦神社
                
藤原泰衡(1155~89)按照父親藤原秀衡的遺言藏匿了源義經,卻屈服於源賴朝的壓力,攻打並殺害了源義經。 1189年,泰衡在奧州合戰中敗給源賴朝的軍隊,逃至平泉,為奔赴蝦夷地而投靠比內的隨從河田次郎。但是,河田卻向其軍隊進攻,並將泰衡的首級送到了賴朝的軍中(岩手縣紫波町陣岡)。儘管如此,賴朝卻不為所喜,以忘記譜代之恩為由,將河田斬首。村民們同情泰衡,將其無首遺體包裹在錦緞作成的直垂(武士禮服)中,供奉於此神社內。神社的名字即由此而來。

直垂 古代的一種衣服。原為平民穿的衣服,鎌倉時代以後,成為了武士的禮服。

ศาลเจ้านิชิกิ

ฟูจิวาระโนะยาสึฮิระได้ซ่อนตัวมินาโมโตะโนะโยชิซึเนะไว้ตามคำสั่งเสียของฮิเดฮิระผู้เป็นบิดา แต่จากการบีบบังคับของมินาโมโตะโนะโยริโตโมะจึงต้องโจมตีสังหารโยชิซึเนะ ในปี 1189 ยาสึฮิระได้พ่ายแพ้ต่อกองทัพของโยริโตโมะในสงครามโอชูและได้หลบหนีไปจากฮิราอิซึมิ เขาเชื่อใจคาวาดะโนะจิโร่แห่งฮิไนผู้เป็นลูกน้องเพื่อให้ช่วยเหลือในการข้ามไปยังเอโซะ แต่คาวาดะได้โจมตีทำการสังหารและส่งศีรษะของเขาไปให้กับฐานทัพของโยริโตโมะ (จินงาโอกะเมืองชิวะจังหวัดอิวาเตะ)โยริโตโมะไม่ได้รู้สึกดีใจกับเรื่องนี้ กลับทำการตัดศีรษะของคาวาดะในฐานะทรยศผู้มีพระคุณ ชาวบ้านทั้งหลายรู้สึกสงสารยาสึฮิระ จึงได้ห่อศพไร้ศีรษะด้วยชุดฮิทาทาเระที่ทำจากนิชิกิ(ผ้าทอไหม)แล้วนำมาไว้ที่ศาลเจ้านี้ ชื่อศาลเจ้าแห่งนี้จึงมีที่มาดังนี้เอง

ฮิทาทาเระ ชุดแต่งกายประเภทหนึ่งในอดีต ในสมัยก่อนเคยเป็นชุดแต่งกายของชาวบ้านธรรมดาแต่หลังจากยุคคามาคุระได้กลายมาเป็นชุดแต่งกายสำหรับชนชั้นนักรบ

니시키 신사

후지와라노 야스히라 (1155 – 1189)은 아버지 히데히라의 유언에 의해 미나모토노 요시츠네를 숨겼지만, 미나모토노 요리토모의 압력에 굴복하여 요시츠네를 습격하여 죽이게 됩니다. 1189년, 야스히라는 오슈 전투에서 요리모토 군에 패하였습니다. 야스히라는 히라이즈미를 떠나 에조지로 가기위해, 히나이에 있는 부하 카와다노 지로를 의지하였으나, 카와다는 야스히라를 죽여, 그의 목을 요리토모의 진영 (이와테현 시와읍 진가오까)에 보냅니다. 그러나, 요리토모는 이것을 기뻐하지 않고, 주군의 은혜를 잊고 배신한 카와다를 참수형에 처하였습니다. 마을 사람들은 야스히라를 불쌍히여겨, 목이 없는 시체를 비단 (니시키) 으로 된 히타타레에 싸서 이 신사에 모시게 되었습니다. 신사의 이름은 이것에서 유래된 것 입니다.

히타타레: 옛날 의복의 일종. 오래전에는 평민의 옷이었지만, 가마쿠라 시대 이후, 무가의 예복이 되었습니다.