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No.14 扇田神明社

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扇田(おうぎた)神明社 
所在地 大館市比内町扇田字本道端47。

 米代川左岸杉木立の中にある。幕末の『郷村史略』に伊勢とあり、伊勢堂と称していた。その起源は鎌倉時代の文治年間(1185~90)という言い伝えがある。現祭神は天照大神などである。
 天正3年(1575)比内の長岡城主浅利勝頼が現在地に社殿を改築したという。現在の社殿は戊辰戦争で焼失後、明治7年(1874)に再建したものである。江戸時代には佐竹氏の尊宗を受け、佐竹氏の紋である五本骨扇紋が許された。また、佐竹氏が常陸からもたらした御神輿が下賜されたという。この御神輿は神輿殿(みこしでん)に昭和43年に作られた御神輿とともに保管されている。
 天保から弘化年間まで続いた寺子屋東里堂塾は修験扇田寺(長岡)宥久が開いたものである(『日本教育史資料』」。
 扇田神明社では扇田地区の女たちが雨乞いの行事を扇田神明社でよく行った。わらで雌雄二体の蛇体を作り、八頭権現社に奉納してから、神明社にお参りし、神官に降雨の祝詞をいただき境内で相撲を取った。女力士は肌ぬぎし、土で化粧をした。年齢は30代から40代の人が多かった。この雨乞い相撲の目的は神域をけがされた神が怒り雨を降らすことにあった。昭和30年頃まで見られたという。
 祭典は元禄のころから春秋2回であったが、繭(まゆ)の生産地であったことから取引市の終ったころの7月16日としたという。境内には「何の木の花とも知らずにほひかな 芭蕉翁」の句碑(享和3年<1803>6月)がある。
 慶応4年に始まる戊辰戦争(1868)では、ここが激戦地となった。十二所を攻略した南部軍は8月11日4時扇田へ進軍し、扇田神明社境内に宿営した。これに対し、早口村まで撤退していた十二所の茂木隊と須田政三郎隊はこの日の夜奇襲攻撃をした。 
 この様子を神明社宮司は自身の「長岡源一郎日記」に「剣戟の光銃丸の響き、秋の夜明けの空に閃き渡りて物凄く、双方死物狂ひになりて戦ひしが、十二所勢は南部の後詰めの勢陸続来ることを怖れて夜の全く明け切らぬ間に早々退陣・・・」と記している。南部の「内藤調一出陣日記」にも「十一日の夜、扇田の下の方より敵不慮に襲ひ来るを味方大小銃を放ち、これを拒み居るうちに、敵また別に一手を扇田の上の方へ廻し、味方の後を絶ち来るにぞ。・・・味方の兵士一人へ四五人ずつ向ひ、大いに戦ひしが、・・」とある。この激戦で双方は多くの死傷者を出した。
 南部軍は扇田を退いたものの8月20日総攻撃を開始。扇田へ突入した南部軍は全村に火を放ち、扇田村は寄郷市川村を含め焼け出されたといわれる。境内の杉の木の中からは当時の弾丸が発見されることがある。
 ジャジャシコ祭りは正しくは鎮火祭といい、幕末におきた大火を機に始まった扇田神明社の火伏祭である。語源は錫杖の音から付けられたといわれる。例年4月3日に行われ、神職が家々の門口で御払いをして、塩をまいて邪を払い、ヒシャクに汲んだ水を屋根にかけて安全を祈る。

Ogita Shrine

It is said that this shrine was built in the Kamakura era and then rebuilt by Asari Katsuyori, the owner of Nagaoka castle. In the Edo era, the Satake Clan’s crest was permitted to be displayed at the shrine. During the Meiji era, Shintoism and Buddhism were separated, and as a result, it became a shrine. The enshrined deity is Amaterasu. In During the Boshin war, on the evening of August 11th, 1868, a fierce battle between the Nanbu and Junisho armies took place here. Many houses were burnt and this shrine was also destroyed. Some bullets from that time can still be found in the cedar trees in these area. The current shrine was rebuilt in 1874.

扇田神明社

相传扇田神明社起源于12世纪后半期的文治年间。据说在天正年间,长冈城主浅利胜赖在这片土地上改建了神社。到了江户时代,佐竹氏的图案-五本骨扇图案得到了批准。神明社内供奉着天照大神。戊辰战争期间,1868年8月11日深夜,南部军与佐竹军等军队激战于此,之后南部军攻入扇田,多处人家被烧,神明社的神殿也被烧毁。神明社院内的杉树中,曾发现过当时激战的子弹。现在的神殿于1874年进行了重建。

扇田神明社
  
相傳扇田神明社起源於12世紀後半期的文治年間。據說在天正年間,長岡城主淺利勝賴在這片土地上改建了神社。到了江戶時代,佐竹氏的圖案-五本骨扇圖案得到了批准。神明社內供奉著天照大神。戊辰戰爭期間,1868年8月11日深夜,南部軍與佐竹軍等軍隊激戰於此,之後南部軍攻入扇田,多處人家被燒,神明社的神殿也被燒毀。神明社院內的杉樹中,曾發現過當時激戰的子彈。現在的神殿於1874年進行了重建。
ศาลเจ้าโองิดะชินเมชะ
  
เล่าสืบต่อกันมาว่าจุดเริ่มต้นนั้นเกิดขึ้นในสมัยบุนจิช่วงครึ่งหลังของศตรรษที่ 12 และกล่าวกันว่าในช่วงยุคเทนโช อาซาริ คัตสึโยริเจ้าของปราสาทนางาโอะได้รื้อถอนศาลเจ้าแล้วเอามาตั้งไว้ยังจุดนี้ ในยุคเอโดะตระกูลซาตาเกะได้รับสัญลักษณ์ตระกูลเป็นรูปพัดห้าซี่ เทพบูชาคือเทพอามาเทราสึ ในช่วงสงครามโบชิน คืนวันที่ 11 สิงหาคม 1869 ฝ่ายนัมบุกับฝ่ายซาตาเกะได้สู้รบกันอย่างดุเดือด จากนั้นฝ่ายนัมบุบุกเข้าโจมตีโองิอย่างรุนแรงทำให้บ้านเรือนผู้คนเกิดเพลิงไหม้เสียหายเป็นจำนวนมาก ศาลเจ้าชินเมชะได้ถูกทำลายเพราะเพลิงไหม้ ยังค้นพบกระสุนในขณะนั้นจากต้นสนภายในเขตแดนอีกด้วย ศาลเจ้าในปัจจุบันได้ก่อสร้างใหม่ในปี 1874
오기타 신명사

기원은 12세기 후반의 문치시대라는 말이 전해져오고 있습니다. 텐쇼시대에 나가오카 성주 아사리 카츠요리가 현재 위치에 사당을 새로 세웠습니다. 에도시대에는 사타케 가문의 문장인 오체골선 문장이 허락되기도 하였습니다. 제신은 아마테라스오카미입니다. 보신 전쟁에서는, 1868년8월11일 밤, 여기서 남부군과 사타케군등이 치열한 싸움을 벌였는데, 그 후 남부군이 오기타로 진입하여 많은 인가가 불태워졌다고 합니다. 그 때 신명사의 사당도 소실되었습니다. 경내의 삼나무에서는 당시의 탄알이 발견되기도 하였습니다. 현재의 사당은 1874년에 재건한 것입니다.

日本語詳細
扇田(おうぎた)神明社
 所在地 大館市比内町字本道端47。米代川左岸杉木立の中にある。幕末の『郷村史略』に伊勢とあり、伊勢堂と称していた。その起源は鎌倉時代の文治年間(1185~90)という言い伝えがある。明治の神仏分離により修験が廃止され神社となった。現祭神は天照大神など。
 天正3年(1575)比内の長岡城主浅利勝頼が現在地に社殿を改築したという。江戸時代には佐竹氏の尊宗を受け、佐竹氏の紋である五本骨扇紋が許された。佐竹氏が常陸からもたらした神輿が下賜されたという。
 天保から弘化年間まで続いた寺子屋東里堂塾は修験扇田寺(長岡)宥久が開いた(『日本教育史資料』」。
 扇田神明社では扇田地区の女たちが雨乞いの行事を扇田神明社でよく行った。わらで雌雄二体の蛇体を作り、八頭権現社に奉納してから、神明社にお参りし、神官に降雨の祝詞をいただき境内で相撲を取った。女力士は肌ぬきし土で化粧をした。年齢は30代から40代の人が多かった。この雨乞い相撲の目的は神域をけがされた神が怒り雨を降らすことにあった。昭和30年頃まで見られたという。
 祭典は元禄のころから春秋2回であったが、繭(まゆ)の生産地であったことから取引市の終ったころの7月16日としたという。境内には「何の木の花とも知らずにほひかな 芭蕉翁」の句碑(享和3年6月)がある。
 慶応4年に始まる戊辰戦争(1868)では、ここが激戦地となった。十二所を攻略した南部軍は8月11日4時扇田へ進軍し、扇田神明社境内に宿営した。これに対し、早口村まで撤退していた十二所の茂木隊と須田政三郎隊はこの日の夜奇襲攻撃をした。 
 この様子を神明社宮司は自身の「長岡源一郎日記」に「剣戟の光銃眼の響き、秋の夜明けの空に閃き渡りて物凄く、双方死にもの狂いになりて戦いしが、十二所勢は南部の後詰めの勢い陸続来ることを怖れて夜の全く明けきらぬ間に早々退陣・・・」と記している。南部の「内藤調一出陣日記」にも「十一日の夜、扇田の下の方より敵不慮に襲い来るを味方小銃を放ち、これを拒み居るうちに、敵また別に一手を扇田の上の方へ廻し味方の後を絶ち来るにぞ。・・・味方の兵士一人へ四五人ずつ向い、大いに戦い・・」とある。この激戦で双方は多くの死傷者を出した。
 南部軍は扇田を退いたものの8月20日総攻撃を開始。扇田へ突入した南部軍は全村に火を放ち、扇田村は寄郷市川村を含め焼け出されたといわれる。この戦いで神明社は社殿が焼失している。境内の杉の木の中からは当時の弾丸が発見されることがある。現社殿は明治7年(1874)に再建された。
 ジャジャシコ祭りは正しくは鎮火祭といい、幕末におきた大火を機に始まった扇田神明社の火伏祭である。語源は錫杖の音から付けられたといわれる。例年4月3日に行われ、神主が家々の門口で御払いをして、塩をまいて邪を払い、ヒシャクに汲んだ水を屋根にかけて安全を祈る。

扇田神明社